2021年2月6日土曜日

【アート】なぜ今、見えもしないものを考えるのか

  私が制作の理論としているのが支持体論というものです。これは「すべての存在は、より高次元から見ると何か別のものを形作るための支持体(材料)としても存在する」という言葉でこれまで説明してきました。この考えは、知覚も認識もできないような事柄を中心主題にしようと感じたからです。今回は、なぜそのような荒唐無稽で夢想的なことを考え、制作していくことが重要なのかについて語ろうと思います。

 私は平成1年の生まれなのですが、その頃というのは丁度世の中が先行き不透明な時代に突入する時代でもありました。世界でいえばソ連が崩壊し、大きく世界を二分していた片方の「真実」が転覆してしまいました。また国内でいえばバブルが弾けて、それまで右肩上がりであった日本の成長経済が停滞していきました。その後も阪神淡路大震災や地下鉄サリン事件など国内に激震が走る大事件が起こり、国外では9.11、それに伴う新興武装勢力とテロリストの脅威などが続き、リーマンショックによる更なる不況、3.11の未曾有の大災害と原発問題の暴露…その他にも予想だにしない脅威と被害を受けた事件がいくつも重なってきました。そして現在、私たちは新型コロナウィルスによるパンデミックの渦中に身を置いています。




 こうした予想だにしない事柄がこの30年の間に、かなり頻繁に繰り返されているように思われます。2010年頃からビジネスシーンでも使われるようになったVUCA(変動性、不確実性、複雑性、曖昧性)という言葉にも表されるように、社会や経済がとても不安定で見通しの効かない状態であることは、皆さんも感じられることだと思います。また人間の活動が地球に与える影響により、異常気象や環境破壊などの様々な問題がより深刻化していきました。そして2016年に国連が掲げたのが、持続可能な開発目標のSDGsであり、その中に環境問題への取り組みも入っています。更に哲学の世界では、しばしば思弁的実在論と総称されるいくつかの新しい存在に対する考え方も現れ、そこでは主に人間以外の存在や、人間が存在しない世界への考えが論じられています。そして科学の世界は加速度的に技術革新が進められ、社会の中で中心主題となりやすいのが人工知能AIの開発でしょう。これは技術的特異点シンギュラリティ(AIが更に有能なAIを作り出す)という予測が立てられるほど、人間に対して根本的な存在意義に影響を与えるものとなっていきます。

 つまりこの十数年間というのはより一層、人間が生きていくためには人間以外の存在に対する思考を深める取り組みが必要だとされてきたのです。私は2014年の修士論文の一部に今後の展望として、人間が関わりあうことのないであろう世界や存在に対する眼差しを述べていたのですが、今思えばその頃は制作の中心主題をなるべく自分事から遠ざけようと客体化していった延長上のものくらいにしか思っていなかったのですが、現在になってようやくこうした社会の動勢に影響されたものであったと感じられるのです。



 ここでやっと本題としての、なぜ今支持体論なるものを思考しながら制作するのかというと、激烈な変化が加速度的に進んでいる現代社会において、あらゆる事象や存在をこれまでのような人間を中心とした視点から活動するのではなく、そこにあるかもしれない不確定で曖昧で知覚も認識すらもできないような事柄を察しながら、現在目にしているあらゆる存在や現象に対し、全く別のイメージや感覚、考え方などをレイヤーのように重ねながら捉えることで、これから先の未来へのワクチンのような働きをするのではないかと考えるからなのです。

 人間以外をテーマとした作品や取り組みは現在たくさん存在しており、一つのトレンドとも言えるでしょう。例えば動物や植物などから見た人間や地球などへの人類学的なアプローチや、科学技術を全面に扱った新しいフォーマットやアウトプットなどです。それらはとてもラディカルかつ魅惑的な求心力を持っているのですが、私は自らがそうしたジャンルの中に身を置くのではなく、少し距離を置いた外側から俯瞰的にその状況を眺めていたいのです。なので支持体論という存在のあり方を思考したり、あくまでも美術作家として作品を形作ることを通して物事を捉えたりアウトプットしたりするのです。そしてまたそれらから新たなアプローチを発見したり試行したりしながら、自分の生きた時代を象徴するような作品を作りたいと願っているのです。

 今後も予測不可能で複雑怪奇な事件や変化に、人間は更に頻繁に立ち会うこととなっていくでしょうが、作家はそうした情勢をいかいして自らの思考と感覚ですくい上げ、それぞれのメディアに落とし込んで人々と共有できるのかを実践する必要があります。美術の場合は全くの共有とはならずとも、いかにして人々の感覚に引っかかるものを与えられるのかということになるかもしれません。

 次回は現在の制作を具体的に取り上げながら、私の思う、作品とそれが示す思考や知覚の揺さぶりなどについて語りたいと思います。

2020年10月23日金曜日

【アート】コロナ禍、サステナブル⇒「察する」ちから

 コロナが続いていくなかで、内省的に自身の作品を眺める作家は少なくないと思います。

私はコロナだからというわけではありませんでしたが、この1年半ほどはそのように省みながら、いくつもの実験や小さな作品の制作を行ってきて全く展示をしませんでした。

その理由は単純に、新しい職場でしっかりと動けるようになることを優先した生活を送ってきたからですが、今後の生活がWithコロナであると世間が認識し始める頃でも、特に大きな違和感もなくただ滔々と実験や小作品の制作を繰り返していたように思えます。

振り返りながら感じたことは、自分の制作の変遷とコロナ禍の経過にはいくつかの相似点や逆に相違点を導くことができ、更に自分なりの提案を見いだすことができるのでは、という考えでした。


まず自身の制作の変遷といえば、絵画や彫刻、インスタレーションというように、より大きく空間的に拡大していく方向へ進んでいきました。

そしてその先は、プロジェクターを使った映像投影を主体とした作品へと移り変わっていきました。

この理由も始めは単純に、大学院を休学して大きな作品の制作や保管の場所が持てなくなったからでした。

それまで空間的に広がりのある作品を制作したくて、大きな平面や立体物などの組み合わせでインスタレーションの表現をしていました。


《鉄塔Ⅰ》(2015)

しかしそれまでの手法を続けることができなくなり、試行錯誤した結果「実体のあるものを作って空間を表現するのではなく、既にそこにあるものへイメージを投影することでも、自分のやりたいインスタレーションはできる”という考えに至りました。


《鉄塔Ⅲ》(2015)

それは自分の作った構造物が空間を作り出すのではなく、既にそこにある空間自体へイメージをレイヤーのように薄く重ねることで表現する方法とも言えます。
それはこれまでのような、ヴィジュアルや構造物を制作し配置することによるインスタレーションとは別の体験として感じられました。
そのため最初は、これまでやってきたインスタレーションの代替案としての手法と思い始めたのですが、そうした別の体験としての認識があったのである意味での満足感を得られたのかもしれません。この手法はプロジェクション・インスタレーションと呼称し、いくつかのパターンで制作しました。

《how to make colors constructing you and your worlds,
 and may be these beyond》(2016)

一方でコロナ禍の経過で言えば、まず緊急事態宣言を期に人々はステイホームを掛け声に外出を自粛し、好きな場所へ出掛けることも様々な人と対面することも自由にはできなくなりました。
つまり実体験における空間的な制約が課されたのです。
ここで自身の制作の変遷との相似点として、この空間的な制約が挙げられます。

そうした環境の中で進んだのがあらゆる活動や経験のリモート化です。
職場にいくことなく自宅で同様の作業を行ったり、zoomを用いた遠隔会議、または会場にいくことなく様々な展示やライブコンサートなどを、インターネットと動画メディアを通して可能なことが人々の間で共通理解されていきました。

はじめの頃は真新しさもあってか、次世代のスマートな環境としてのそのスタイルは、素早く拡大し許容されていきました。

しかしネットを介した会議やリモートでの飲み会などは、いわゆる「リモート疲れ」として一つの障壁を感じる段階を迎えていると昨今では囁かれています。もちろんそんなことを感じず、常に快適な環境として捉えている人もいるでしょうが。
これはリモートワークの効率の問題ではなく、あくまで感覚の問題です。

もっと顕著なのは、やはりヴァーチャル空間での展覧会ではないかと思います。
仮想空間上をヴューポイントで移動しながら作品を鑑賞する体験は、ある一定の意味においてはリアルの空間での鑑賞とは別の体験と言えるでしょう。(つまりそもそもVR空間でしか体験できない作品において)

しかしそれらのどのリモート化の内容も、現時点においてモニターを通したリアルの代替でしかない以上、その経験はリアルでのそれを軸とした比較によってのみ評価されます。
様々な技術開発による目覚ましいテクノロジーの発展をもってしても、やはり未だリアルの体験との差は違和感と不自由性として感じざるを得ないのが実情かと思います。リモート疲れという現象も一つはそういったことが原因でもあるでしょう。
つまり現時点でのリモート、もしくはVR空間の体験価値はリアル空間でのそれの代替として、未だ不十分であると言えます。

断っておきますが、私はリモートやVRの反対論を言いたいわけではありません。
これは更なるテクノロジーの進化による解像度の向上が成されれば、いずれは超克され得る問題だと思うからです。
むしろ完全なる人間の電脳化と言いましょうか、要するに映画「マトリックス」のような世界が現実となった場合、それは私の制作理論である支持体論でいう別次元への移動を意味するので、そのような出来事への期待を感じもするのです。

ただおそらくそういったことが現実となる日は、はたして私たちが生きている間である可能性は今のところ低いように思われるのです。
それは過渡期である現在に生きている私たちの宿命であり、むしろその過渡期をより正確な形で捉え、実社会へ落とし込むことの方が重要であると私は考えています。

《how to make colors constructing you and your worlds,
 and may be these beyond》(2016)

ここで私が何を言いたいかというと、つまり限りなく現実に近い五感を伴うヴァーチャル世界による体験ができない以上、リモートワークや遠隔サービスなどは、現実空間の代わりではなくそれとは別の体験として認識されなければ十分とは感じられないのだということです。

そしてそれはもしかすると、先述の自身の制作によるプロジェクション・インスタレーションのように、何か現実にすでにある空間に対し、レイヤーのようにかぶせることによってエフェクトを加えるような技術であるのかもしれません。

これに該当するであろう現在の手段とは、AR(拡張現実)技術がすぐに思い起こされます。
具体的にどのようなことが考えられるかは分かりませんが、「身近な現実空間を意図的に利用した上で、あらゆる活動がリモート化される」状況が、現在最も適した手段ではないかと感じています。
はたしてAR以外にもその手段はあるのかもしれません。


さてそうしたコロナによる問題がこれだけ大きく拡大した原因の一つとして、いきすぎた資本主義や自由主義による環境破壊やグローバルな人の流れが指摘されています。

国連によるSDGs(持続可能な開発目標)やサステナビリティという言葉も広まった現在、上記の問題はより切迫した事実として地球レベルで認識されなければならないことでもあります。

正しくそのSDGsの大きな目標と小さな目標の内容をもって、それらの問題に対処しようと国連が各国に働きかけていたわけです。


しかしこの目標をもって全ての問題をカバーできるとは言い難いのではと感じているのは私だけではないと思います。

それはこの取り組みが無意味だとかそういう批判めいたことを言いたいのではなく、別の視点から同じ問題を捉えた際にどういったことが見出されるかの違いを述べるに過ぎません。

政治家や専門家などの視点から捉えた問題の対処がSDGsであり、料理研究家から捉えたそれはまた違うでしょう。


そういった意味で美術作家である私が考えていることは、一言にすると「察する」ちからの必要性ではないかということです。

私の考えていることに最も適当な言葉ではありませんが、これが近いのではと思い使用しています。

「察する」とは辞典で調べると、大凡「情緒、直感、不確定なことを基にして信じる」、「物事の事情などをおしはかってそれとしる」などの意味が出てきます。

ここでは前者の「不確定なことを基にして信じる」の意を頼りに「不確定性のものを受容し、認識できる形へ据え置く」というように定義したいです。


私の制作やその理論である支持体論には、別次元や知覚認識不可能なことへの眼差しが基盤にあり、そういったことを疑心暗鬼の目で捉えるのではなく、ただそれらを受容しそこから考えうる様々なことを思い巡らせて言葉にしたり形にするという態度をとっています。

これはコンセプチュアルアートのように概念として認識できることを最重要にしたり、逆に考えることではなく感じることの中にのみ本当の美を求めるアジア思想であったりとは違う態度を目指しています。

この態度を要するに「察する」状態と考えています。


では私の提言する「察する」ちからは、そうした苦難にどのような効果を期待できるのでしょうか。

効果やメリットがなければ人の社会は動くことがありません。


それはまるでワクチンのように、「不確定性のある事態に対する免疫力」として働くのではないかと感じるのです。


今後も私たちには想像もできないような未曾有の大災害や破壊が待ち受けているでしょう。

それは人間によるものであろうが自然によるものであろうが、過去も現在も未来も等しく繰り返されるであろう事実です。


しかし私たちの価値観の中に、起こり得るかもしれないが確証のない事柄に対して「察する」ことの意義があれば、もしなにかしら想像もつかないような最悪の事態になったとしてもそれを真っ先に受容することができ、適切な行動へつなげることが可能となるかもしれません。


また「察する」には「思いやる」というニュアンスも含まれます。

それは人間以外に対するものでもあり、知らず知らずのうちにまだ見ぬ脅威への事前の対処方法となって、大災害などを未然に避けたり被害を減らすことができるかもしれません。


行き過ぎた資本主義・自由主義・グローバリズムによる末路は、欲望が倫理となっていく世界であり、その果てに何が待っているのかは想像に難くありません。

その過渡期にあたる現在、コロナによる脅威は私たちの社会に対し、ある意味必然性を持って大きな苦難となったのでしょう。

決して、だから良かったなどというつもりは毛頭ありません。

痛みを受けたからこそ、ただでは起き上がらないという意味で、この苦難からそれなりの糧を生み出すことが建設的に前に進むための一助となるのではないかと思うのです。


私の場合はそれを「察する」ちからとして考えました。

今後も制作や理論を進めると共に、実社会との関わりを交えて考察する機会も増やしていこうと思います。


《第4次仮設法によるSpread #9》(2020)


2020年9月6日日曜日

【アート】 支持体論>仮設→間

なんと3年ぶりの投稿となります。

その間で起こったことを挙げながら、再スタートのあいさつと致します。

(1)静岡から京都、そして神戸へと拠点の変遷がありました。

(2)会社を休眠し、彫刻家・名和晃平さんのアシスタントを1年ほど担い、現在は放課後等デイサービスの運営を行っています。


20代から30代に入り、公私共に様々な挑戦も挫折も経験しました。

得るものばかりではありませんでしたが、蓄積したスキルを使って、再び新たな場所での活動を進めていこうと思います。

このブログではこれまでと変わらず活動を通して、アート・教育・経営の視点から綴っていきます。

今後ともどうぞ宜しくお願い致します。


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早速ですが、まずは人生そのものでもある制作について語っていきます。

前述した通り、実は2年前に京都のSANDWICHで名和さんのPix-Cell制作チームに所属し、アシスタントをさせて頂きました。

プロダクトとしての完成度やクオリティの高さも有名な名和さんの作品ですが、その制作チームの求める水準の高さについていくのはとても苦労しました。

数えるほどですが、名和さんと直接お話しする中で、その制作への眼差しであったり今必要なことなどをお伺いすることもできました。

また大英博物館にも作品が収蔵されている宮島達男さんとも、幸運にもお話しさせて頂く機会がありました。

話していて感じたのは、やはりお二人ともとても議論好きな人柄であり、どこぞの馬の骨とも知らぬ僕にも真摯に向き合ってくれました。

お二人の話についても後日語れればと思っています。

そんな密度の濃い1年間を過ごした後、去年からは地元兵庫県へ帰って、実家の経営する放課後等デイサービスの教室でこどもの発達支援を行っています。

神戸へ移ってからは、身に付けた樹脂技術を新たな制作方法として、実験や小作品を作ることを繰り返していました。











これら以外にもいくつもの実験と失敗を繰り返してきました。また別の機会にそのお話しもできればと思います。


さて、制作と共にステートメントも少し前に書き変えました。

2015年から自らの制作の視点を取りまとめるために思考した支持体論という観念をもとに、以降様々なメディアを使って活動してきました。

支持体論の具体性として、「仮設(けせつ)」という仏教用語でもある言葉を主題に、映像投影を中心に展開していきました。
(支持体論、仮設については上記URLへ)


当時は大学を休学し、大きな制作場所も作品の管理場所もなく、その上で地方の芸術祭などホワイトキューブ以外の現地での制作や展示を要求されることがほとんどでした。

そこで初めて使用した映像投影という手法により、「空間を作り出す」ためには作り込んだ立体造形は必ずしも必要ではないということに気づきました。
その場にあるものを構成し、そこへ自分の映像をレイヤーのように重ねることで仮設的な空間を演出しました。

しかしこの仮設の主題も、いずれは行き詰まりました。
それは支持体論の根幹が「知覚認識の絶対的な不可能性」を説くものであり、それを視覚芸術として重きを持つ美術へ展開する矛盾を常に孕んでいるため、仮設だけではその具体性を突き詰めることに限界があり、あとはいくつかのパターンを作り出すだけに留まってしまいます。

そこにはある実態性が必要でした。
まるでピカソがそれを絵画に復帰させるため、あらゆるものをコラージュしたように。

そこで去年、今一度支持体論を再考し、そこで「間(ま)」という主題に移っていきます。

これは「何かの存在(石)を他の存在(人)が認識する上で、それぞれの間にはそれらを同期化する何かがある」という考えです。

例えば、人が石を見る(知覚する)と脳は、そこに石があると認識します。
しかしそれは脳が処理した2次元イメージを3次元イメージとして認識したものであり、その元々の情報源は石に反射した光なのです。

同じように手にとって感触を確かめる、匂いを嗅いでみる、舐めてみる、などの行為を通して感じられるものも、全ては我々の知覚認識の枠の中で起こる現象なのです。

しかし元来、石そのものの存在は我々の枠組みを介さない所にあるものであり、知覚認識の現象とは無縁の状態にあるものなのです。

つまり我々を含めた全ての存在は、自分とは別の存在に対して直接的に捉えたり、触れ合ったりすることが、本質的には絶対的に不可能なのです。

しかし我々は道端に石が転がっていれば、あぁ石が転がっているな、とそれを拾い上げて道の脇へ置くことができます。

これは互いの存在と存在が、何か同期化するような作用をもたらす何者かの働きではないかと考えるわけです。

その何者かへ「間(ま)」という言葉を当てて捉えようとしているのです。

この「間(ま)」は考えようによっては、人と外界を繋ぐ光であったり、もしくは人の視覚構造としての視神経の働きであったり、または人と人の間のコミュニケーションであったりするかもしれません。

ただ私が自分の表現するならば、そういった具体性は地域の芸術祭などの特定の場所性や歴史性を、いやがおうにも強く結び付けられるステージで行えば良いと思っています。(今の日本の芸術祭においては)

ある程度の普遍性を持ってコンスタントに作り続ける表現においては、もっと俯瞰した抽象性のある視点から物事を考え制作したいのです。

だから私はこの「間(ま)」という存在を、より概念的で抽象的な存在論としてのものとして扱ってみたいのです。

もともとは、ある次元とまた別の次元は隣接している場合において互いに影響をもたらし得るが、直接的に互いを認識することは不可能であるという、支持体論の次元の論理が出発点となりました。

そうした場合、「間(ま)」というのはありとあらゆる物をそれぞれ包み込むようにして存在しており、そこへ別の存在がくっつくことで、「間(ま)」を介してそれぞれが同期化されると考えました。

それをマイクロビーズやアクリルキューブで表現したのが以下のsyncasync シリーズの作品です。 






これは同時に全ての存在は、「間(ま)」に包まれていることによって、本来何者からも侵犯されることのないある種の絶対性を既に持っていると捉えることもできます。

絶対的な隔絶であり孤立であるが、その「間(ま)」が他者との同期化をはたし、まるで互いに影響を及ぼしているかのように見えるのです。

支持体論に還元すれば、その絶対性はその存在が成り立つ次元の枠組み内においては完全性として機能し、また別の次元においては仮設性としての姿を現すと言えます。

実は今思えばこの「間(ま)」への眼差しは、既に6年前ほどから直感的に捉えていたような気がします。

その頃はよく街中を写真で撮ることが多く、その中に建物と建物の間の、路地とも言えないような隙間や空き地くらいのスペースなど色々な大きさの空間を撮影していました。

それらは「狭間」というタイトルを付けてSNSなどに投稿していました。




または映像機材や写真などの作品でSpreadと冠した一連の作品群があるのですが、それらは全て「間(ま)」自体を捉えようとしていたとも言えるのかなと、最近見返して思うのです。




この「間(ま)」は一つの空間性と捉えることができると考え、それからの実験はどのようにして空間性を介した対象へのアプローチができるかを進めてきました。

そのほかにも「間(ま)」を表現するにはどのような捉え方ができるのかを考え、そこへのアプローチ方法を模索してみたいと思います。

そして現時点での制作がどのようになっておるのかは、また次回お話しすることに致します。




2017年5月12日金曜日

【経営】地方都市におけるアーカイヴ制作の戦略と有用性

2017年4月の美術批評誌『REAR(リア)』の特集は「アーカイヴは可能か?」でした。

掲載稿の中でも太下義之(三菱UFJリサーチ&コンサルティング、芸術・文化政策センター主席研究員/センター長)による「文化政策としてのアーカイヴ -周回遅れからの逆転のために-」の前半は、2001年11月成立の「文化芸術振興基本法」のアーカイヴに関する記述の紹介と考察で構成されいています。

その中でも、私が注目したのが2015年5月に閣議決定されている「第4次基本方針」にある記述でした。

それによると「我が国の多様な文化芸術、映画・映像、文化財等の情報について、デジタル技術、インターネット等を活用してネットワーク化、アーカイヴ化するなど、保存、展示、国内外への発信等を促進する。その際、学校教育における活用の促進の観点から、子供たちが理解しやすいものとすることにも留意する
(p31「10.その他の基盤の整備等」(1)項目より)

『文化芸術の振興に関する基本的な方針(第4次基本方針) の閣議決定について』↓
http://www.bunka.go.jp/koho_hodo_oshirase/hodohappyo/pdf/2015052201.pdf

以上の記述からも、①インターネットを活用したアーカイヴ化 ②市民にも理解しやすくアクセスのしやすい情報の整備と公開 という観点の重要性が明らかとなりました。

私の経営する合同会社Bambrook(バンブローク)では、動画制作・ワークショップ企画・デザイン・アートマネジメントを主軸に事業運営を行っております。
(Webサイト⇒https://bambrook.jimdo.com/

現在は動画制作を主な事業としつつ、将来的なビジョンとしては本店のある静岡県を中心とした、「動画メディアを通したアーカイヴ制作による、地方都市の芸術・文化の振興」に置きたいと考えています。

それによって以下の効果を発揮すると考えております。

①学校教育目的による、教職員への授業づくりへの参考資料としての活用や、動画自体を用いた教材化への応用。または生涯教育目的による、市民の生活により密接なワークショップ等諸企画への参加の促進。

②上記を通した活動による地産地消型(オープンでありクローズ)の情報共有をベースとした新たな地域連携の創造、および地方都市戦略における新たな発展。(例えば静岡県の人口流出問題に対し、地域の魅力ある芸術・文化の現状を動画メディアによって入手しやすい環境を整えることによって、その地域の教育的価値やシビックプライドの向上などを通して、定住者の上昇が期待される)

③新たなアーティストなど芸術・文化の担い手の育成と発見の現場を、より市民が身近な存在として受け入れる契機の創出。

④地方都市の芸術・文化に関するアーカイヴ資料により、後代の研究資料が拡充すると共に、動画によってより直感的導入的な調査がしやすくなる。それにより首都中心的な文脈以外の文脈化が進み、より多角的な批評が行われ日本全体の芸術・文化の成熟化を促す。


以上のことが現在考えられます。
加えてこの事業は、2020年の東京オリンピックまでに全国で行われる文化プログラムまでに大変有効なものであります。

(文化プログラムに関する投稿は以下↓)
【経営とアート】2020年オリンピック文化プログラムに必要なこと
http://tanisanchi.blogspot.jp/2016/12/httpwww.html

つまり今現在も執り行われている各種企画を、その立案、準備、試行、実施、考察を兼ねて動画メディアに残すべきであるということです。
しかもそれらの実施は明らかに2020年以降よりも成されるはずなので、地方都市におけるデータの充実が行われやすいのです。

このアーカイヴをもって研究資料のみならず、実質的な活用を行うためには、アクセスのしやすい環境を整えた動画メディアサイトの運営が必須と考えています。

以下のシズオカアートネイバーは、その試作段階にあります↓
https://shizuoka-art-neighbor.jimdo.com/

もちろんネット上での情報共有だけではなく、アクセスのしやすい場所に情報を入手できる中心施設の必要性はあると思います。

しかしそれはあくまでもアーカイヴ目的のみの施設ではなく、展覧会やイベント等へのハブであったり、そもそも現実空間である特質を活かした活用目的を主軸とする、動画アーカイブとはまた質の違う目的性の下で運営されるべきです。

ここで私が提案しているのは、あくまで動画メディアの制作とオープンでありクローズである共有サイトの運営を行うことで、アーカイヴ制作と地方都市の芸術・文化戦略の両方を担うことができるであろうということなのです。




















2017年4月19日水曜日

【アート】美術手帳2017.5「坂本龍一」と「谷正輝展 -your ray-」

まず私事から入りますが、2017年3月をもちまして無事大学院を修了し、今更ながら社会人1年目となりました。
同時に5月より、これまでの個人事業を法人化して「合同会社 Bambrook」として新たな歩みを踏み出すことになりました。
今後の成長も温かく見守って頂きつつ、いや、見守るだけでは…!という方がいらっしゃいましたら、是非お声がけ頂ければ幸いです。

2017年5月号の美術手帳の特集は「坂本龍一」でした。
最近私自身が音楽というか、音そのものにも興味を持ち始めていたことと、先日開催した個展(個展についてはまとまり次第改めて掲載致します)の評論に、以下のような音楽との関係性を示すものを頂いたこともあって購読しました。

※「谷正輝展 -your ray-」↓











以下「谷正輝展 -your ray-」(2017)に対する批評文
(著:曽布川祐、オルタナティブスぺース スノドカフェ七間町店 店長)

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電車の音とは、数あるサウンドスケープの中でも西洋的な文脈上にある大衆音楽に近いものだろう。
単調に規定されたリズムとメロディー。僅かばかりの即興的要素である乗客も、みな社会的に規定され、紋切り型の音声を出すばかりである。
特に山手線という「楽曲」は、電車という「楽器」が奏でるものの中でもかなり規定されたものだろう。
それはまるで、「金太郎飴」と揶揄されたラモーンズのようですらある(環状線であるそれは、何度も繰り返しリプレイされる。アナウンスによる「歌詞」もいつも一緒だ)。
「山手線」という楽曲は、BGMとして決して耳触りなものではなく、むしろ心の平安を保証するものであるに違いない。言うなれば、これは音楽的な作品である。 製作者の意図は、三次元空間である「我々の世界」の代表的な風景として、世界で最も利用客の多い山手線の映像を壁に写す(移す)ことによって、それを二次元に押し込み、それを外から見る鑑賞の主体者の世界→三次元を、四次元として引き起こすことにあったのだろう(対面の壁には、ギャラリーを鑑賞する己の姿が同時的に映し出される。用心深く二重に仕掛けられているのだが、その効果のほどは、個々の鑑賞者の感想を集計した統計の結果を待つばかりである)。
ソシュールの「一般言語学講義」では、言語における共時的状態は壁に映写された言語の通時的運動である、と表現されている。この比喩を我々の空間に適用し逆側から読むと、壁に映写された空間は時間軸から切り離される、ということになる(まるで現象学だ)。要するに、一つ下位の次元に引き落とされる、ということである。
我々の視覚もまた、心という壁に世界を映すゆえに同じことが起きると言える。
我々にとって物事を立体的に捉えることが困難なのはそのためだ(我々が物事を立体として解釈するためには、複数の面を幾何学的に組み合わせる必要がある。我々の知覚の限界がこの「面」なのだ)。
作品に戻ろう。あらかじめ面となった山手線の風景は、我々に空間的感覚を喚起させず、聴覚が優位性を持つものとなる。
それゆえ、「この作品は音楽的な作品である」と言い得るのだ。

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以上、批評に対する応答も含め個展を主題とした投稿は、またの機会にしようと思います。

さて前置きが長くなりましたが、本題の坂本龍一さんのロングインタビューには李禹煥やもの派への言及と共に、アルバム「async」の解説がなされていました。

まず「async」ですが、これは「asynchronous」(非同期)を意味するネットワーク用語です。
この辺りは李禹煥や菅木志雄の言論が示唆する、素材として扱われていた物と作品、作者などの主従関係を並置させることで、「もの」そのものの存在を非同期的に立ち現すことと類似するでしょう。

「async」収録の音楽は、「もの」そのものが発する根源的な音への興味を中心に制作されたようです。

そしてアルバム公開前のプロモーションでは、「SN/M比 50%」というメッセージだけしか示されないというものでした。

この「SN/M比 50%」という言葉ですが、電子工学関係者なら一目瞭然なのでしょうが、インタビュー内での発言などからも考えると「S/N比」が本なのでしょう。
信号(signal)と雑音(noise)の比率です。

坂本龍一さんの場合、S=sound、N=noise、M=music(詩的) ということになっています。
発言からもSとNの区別はもうできないということから、SもNと同じ値として抱えられているということです。

これを美術で考えるとどういったことなのだろうか、とも思うのです。
ノイズというものから考えてみると、「妨げになるもの」や「余分なもの」、「予測不能なもの」などという意味合いがあり、つまりは「対象外のもの」ということになります。
つまりS=素材になるもの、N=素材にならないもの、とでも置き換えられるでしょうか。

以上の内容から自身の「谷正輝展 -your ray-」の作品を見ていきたくなりました。

SNの区別がつかないということは、「素材になるものとならないものとの区別がない」という意味であり、それは数十年前からの横断的で多様性に富む昨今の表現を見ればその通りでしょう。

今回の個展でいうと、例えば《how to make colors constructing you and your worlds, and may be these beyond》(2017)という作品には、モアレと呼ばれる画面ノイズを取り入れています。


さらに、展示にはプロジェクター3台を使って様々な角度からの映像投影を交差させることで、インタラクティブな要素を絡めつつあらゆる空間への投影を行っています。

そこで投影される映像は必ずしも平らで四角い面ではなく、柱や天井、床など凹凸のある空間へ映し出しています。



一般的にこれらの凹凸や、そこに映った像のゆがみや流れなどはノイズとして排除されるのですが、私はこうした画面を意識しない映像投影を行うことで、

平面的に映像作品をみる場合、その見る視点が同一上の空間ではなく、スクリーンを介して切り離された向こう側への眼差しとして、ある意味フィクションな世界を引き立たせた構造になっていると考えているのです。

私が作品のスタイルをわざわざプロジェクション・インスタレーションと呼称しているのは、映像自体への関わり方やその在り方についての言及をしているからなのです。

話を戻して坂本龍一さんは、Mとはmusic=詩的要素であると語っています。
音楽をやっている以上、言葉で言い表せないことがあるわけでその要素がMであり、なければ知的操作のみに終わってしまう、という趣旨の説明でした。

言葉や何かで理解するものではなく、「突き刺さるようなもの」、「理解を超えた痛み」などと表現されており、美術作品でいえば李禹煥の「関係項」シリーズに顕著なMを感じるとしています。


このMですが、私にとっては「シビれ」であったり「作品の成立の瞬間」であったりすると感じています。
私の制作の場合は、時間的要素やいわゆるNの要素の割合が大きいため、瞬間的にそのMが訪れるのです。
それも質の違いのあるMが、さざ波のように迫る感覚を私は私の作る空間で感じるのです。

以上、このように自らの制作を通して坂本龍一さんのSN/Mを捉えようとしました。
これは知識不足なため単なる予測ですが、S/N比の単位となるdB(デシベル)とは絶対値を表す単位ではなく、%のような比率を表す単位であることから、「SN/M比 50%」というのがdBのような単位として扱われていることが読み取れます。

一般的に60dBが聞き取りやすい音質や音量ということですが、この値が50%としているため単純に50dBと比較してみるとどういったことが言えるのかを考えてみました。

50dBの世界については以下のサイトを参照してみてください↓
http://www.50db.com/world.html
つまり50dBというのは、ほぼ聞き取りづらいということでしょう。
ただこれはS/N比で考えてNの値が大きいから、聞き取りづらいということになるわけです。

ただし今回そのNはMとして置換されているわけですから、つまりは詩的要素としての「突き刺さるもの」が今回のアルバムにはふんだんに感じられる力作であることを示しているわけです。

それは本人もすでに答えています。
「あまりにも好きすぎて、誰にも聴かせたくない」

ここまで言わしめる作品を作れたというのは、一作家としてとてもうらやましいなと感じるのが本音ですね。

私の個展のSN/M比は果たして何%であったのか。
それはまた次回、個展についての投稿までに言葉にできればと思っています。


2016年12月13日火曜日

【経営とアート】2020年オリンピック文化プログラムに必要なこと

オリンピックには文化プログラムなるものが同時開催されることをご存知でしょうか?

要するに芸術文化の企画イベントなのですが、世界の注目が集まるなかでそういったものを通して、スポーツ力(?)と共に文化力の高さを国内外へアピールするなどの目的があります。
(以下URLよりページ参照 http://www.nhk.or.jp/kaisetsu-blog/300/254256.html

オリンピック憲章にもちょっと難しく掲げられてます。

1-
OCOGは、文化的ないくつかのイベントを計画し、プログラムを作成しなければならない。プログラムはIOC理事会に提出し事前に承認を得なければならない。


2-
文化プログラムは、オリンピック競技大会の参加者とその他の観客との平和でなごやかな関係、相互理解および友情を増進するのに役立つものでなければならない。

規則44付属細則
1-
文化プログラムには下記のものが含まれていなければならない
  • 1.1 オリンピック村で開催される文化的行事で、人類の文化の普遍性と多様性を象徴するもの。
  • 1.2 おなじ目的をもったその他の行事で、主として開催都市で開催され、一定数の座席がIOCにより資格認定された参加者のために無料で確保されているもの。
2- 文化プログラムは、少なくともオリンピック村がひらかれている全期間を網羅したものでなければならない。
(以上、オリンピック憲章 44.文化プログラムより http://www.joc.or.jp/olympism/charter/chapter5/44.html



本基本方針では,文化芸術資源で未来をつくることを目指 し,我が国が目指す「文化芸術立国の姿」として以下の四つを挙げている。 
① あらゆる人々が鑑賞や創作に参加できる機会がある
② 2020 年東京大会を契機とする文化プログラムが全国展開されている 
③ 被災地の復興の姿をはじめ,全国津々浦々から地域の文化芸術の魅力を発信 している 
④ 文化芸術関係の新たな雇用や産業が現在よりも大幅に創出されている
(以上、文化プログラムの実施に向けた文化庁の基本構想 よりhttp://www.bunka.go.jp/koho_hodo_oshirase/hodohappyo/pdf/2015071701_besshi1.pdf


これらを獲得するために、ロンドン大会文化プログラムを真似て4年前からスケジュールとして取り組まれています。
開催に向けてあらゆることがすでに取り組まれ、実は今年11月より開始されています。

今後選定された各事業が様々な地域によって進行されていくでしょう。

かしこれらの文化事業というものが即物的に効果を発するものばかりではないことは、芸術文化の事業を行う上で必ず捉えておかなければならないことでもあります。

どんな事業や企画でも、それが成されるその時までは盛り上がりを見せて取り組まれ開催されるでしょう。
しかし次に大切なことは、それらの正確な検証作業です。やって終わりが文化になるわけがない。

そこで最も効果的なものが動画によるアーカイブの制作です。
開催に至るまでの経過はもちろん、特に芸術文化による企画であればこそ開催中の空気感や来場者の声など、細かな部分での情報の収集が可能となります。

クラウドシステムの向上によって、それらのアーカイブは必ずしもハード保存する必要はなくなり、継続的でどこからでも参照可能な動画共有サイトの活用(公開、非公開含めて)もできます。

もちろん開催までの広告的な意味での動画の制作も可能でしょう。
しかしそれだけを目的としてしまった場合、必要以上のクオリティを求めてしまいコストがかかって継続的な制作ができません。
そして上記の意味において動画制作の意義は必ずしも高クオリティで広告的な活用のされ方で縛られるものではなくなっていくでしょう。

僕が今行っていることを一言で言うと、「中スペック機材による中クオリティ動画を低コストで制作」することです。
このような状況が実際におこってきた場合、その需要は必ずあると考えています。

事業としての継続的な契約を考えるなら、その相手は公的機関もしくはそれに準ずる団体であることが常套です。
しかしそういった組織には内部で動画制作を行うだけの環境が既にそろっているものが多いでしょう。
その場合僕らの出る幕はありません。

いかにして独自のカメラアイのような切込み方を考え、自分たちの作る動画に付加価値をつけ、
パッケージングすることができるのか、模索している今日この頃なのです。

一つ考えていることは、そういった検証作業自体も担うことのできるリサーチ力も兼ねた動画制作サポートということはどうだろう…とも思うのですが、そのためには実績を作っていかなければ信用がたちません。

来年度、もしかしたら法人化するかもしれないので、事業の数年後を考えて計画をしていきたいと思います。
どんなことでもいいので、僕に興味を持って、力を貸して頂ける方がいらっしゃいましたら、是非ともお知恵を拝借したいものです。

2016年10月6日木曜日

【アート】Yuri Pattison、長島有里枝、文化展に向けて

今月10月号の美術手帖に取り上げられた展示の内、2つを実際に見に行っていた。

一つはロンドンの Chisenhale Gallery で開催されたユリ・パティソンの個展。
ポスト・インターネット世代の旗手として紹介されている。



あの展示室内に入った瞬間の、何か爬虫類系の水槽の中に入ったような感覚を思い出す。

室内右手奥に配置されていた《ユーザー、スペースのための半避難所》には観葉植物が構成されていたり、エンドレスで流れる環境デザインイメージのような動画などが組み合わされていたり。

ただ僕が伺った際は、丁度作家同士の交流会のような時間だったのか十数人の人々が作品空間の中の椅子に座って談笑していたり、テーブルにコーヒーカップを置いていたりしていて、美術手帖で紹介されているような「生気のない環境」というよりも、そんな空間はむしろ当たり前でもうそこに慣れた人々が何気なく「表面的な無機を受け入れて生活する」ような空間という感じだった。

まだ中々その輪へ声をかけるほどの勇気はなかったのだが、それでもその出くわした状況に更なる面白味を感じる良い機会だったと思う。

もう一つの展示は、神戸のデザイン・クリエイティブセンターで開催された、長島有里枝の『縫うこと、着ること、語ること。』展だった。


何枚か男性の写真も展示されていることに美術手帖のインタビュアーも触れているのだが、そこは僕も気になっていたところだった。

あれだけ女性や母親などのテーマ性が感じられるなかでの敢えてのの男となると、そこには少々居心地の悪さを感じざるを得ない部分も見え隠れするのではないかと思うのだが、写真に写る彼はそうではないのだ。

インタビューに対して作家は答える。
「写真をやっていると男女関係なく、どうしても撮りたいと思う人に出会うんですが、まさにそれで。…展示のアウトラインはあったけれど、こういう偶然性とか、自分の感情の経時変化を排除したくないと思って、男性や風景も撮り始め、展示に入れたのです」

作ってるとき、特にある展示がもうすでに決まっている状態である程度のプランを持っている際に出くわすこの感覚にどう対処すべきか、けっこう悩みどころではあると思う。

ある意味めちゃくちゃ楽しい瞬間であるけど、それをむやみやたらにくっ付けるだけでは展示にならない。それを主題とした上での提示や文脈づくりである以外は。

今月の21、22、23日に遠州横須賀街道ちっちゃな文化展に出展させて頂く。/http://kasaiya5.web.fc2.com/

制作に向けて明後日から3日間、現地で滞在して取材や実験を今年も行おうと思っている。
文化展の中でもスポットライトの当たる場所を有難いことに頂いたこともあり、感覚を鋭くして当たりたい。

ただ現地での制作という最もレジデンスらしい作品は、正直昨年のものを超えることは僕にはできないだろう。

逆に言えば最も正統派で王道なアプローチによるものだった。
今年はそこへ挑戦的な色をもう少し加えたいと思っている。
軽いプランはあるが、どうなるかはまだ分からない。

明日からの滞在で出会う魅力的な何者かにどう対処するのか、一つのプロセスを今回は見つめてみようとも思う。


前回出展作品《Replaying》

詳しくはWebサイトへ↓
http://tanisanchi.jimdo.com/